“さようなら、ペヴスナー。”

名古屋市美術館の常設展示室で展示・紹介している作品は、基本的には当館の所蔵品ですが、なかには個人や企業が所蔵する美術作品も含まれています。個人の方がご所蔵され、それでもご自身一人で鑑賞するだけではなく、市民の皆様にも見ていただきたい(あるいは見せたい)という意思をお持ちの方には、「美術館の万全の環境でお預かりいたします。その代わり常設展示室で展示させていただきます。」という条件で作品を収蔵しています(勿論、美術館の常設展示室で展示・紹介するにふさわしい優れた作品かどうかという審査がありますが)。この制度を「寄託制度」と呼び、当館では二年更新で保管・展示をしています。購入や寄贈によって収蔵された作品は、名古屋市の財産として永久所蔵となるわけですが、寄託作品は、ある日突然所蔵者の手許に引き取られることもあります。


アントワーヌ・ペヴスナー《コンポジション》

今年の夏、常設展示室で展示されていたアントワーヌ・ペヴスナー《コンポジション》も寄託作品の一点でした。すでに三期五年にも亘ってご寄託いただいていたのですが、所蔵家からの申し出を受け、去る10月1日を以て寄託を解除、その後海外の個人所蔵となったようです。貴重な作品でもあり、誠に残念ではありますが、“泣く泣く”ご返却申し上げた次第です。

『アート・ペーパー』87号(2011年秋号)で紹介しましたとおり、同作品はキュビスムが平面から立体、さらには空間へと大きく展開した時期に制作されました。当館では、キュビスムによる作品をさほど多くは所蔵していないのですが、それでも、キスリングの《静物》(1913年)やローランサンの《サーカスにて》(c.1913年)、あるいはディエゴ・リベラのパリ留学時代の秀作《スペイン風景(トレド)》(1913年)、さらにはザツキンの彫刻作品《扇を持つ女》(1923年)等の所蔵作品と並べて展示すると、ペヴスナーの作品はキュビスムが模索した構図と構成の実験とその成果を比較・対照できる、絶好の、そして筆者にとって“お気に入り”の一点でもありました。さらに、この作品には表現ばかりでなく、もう一つ大きな“魅力”がありました。その裏面には一枚の印刷された写真が貼られていたのです。

写真には、テーブルを挟んだ14名の男性が写っています。室内と思われますが、全員がコートと帽子を着用したままで、まさに食卓に着いたところでしょうか。テーブルの右端に座っている男性は士官のようですが、その他の人物はウシャンカと呼ばれるロシア帽子を被っていることから、この一群がロシア軍に所属していることを知らせます。そして画面左手前から四人目のひげを蓄えた人物は丸で囲まれ、その向かい手前から五人目と二人目にはそれぞれ「1」と「2」という数字が書き込まれています。

丸印をつけられた人物が作家本人かどうかは現在までのところ確認できていません。ただ、少なくとも、だが確実に言えることは写真が撮影されたのがパリではなく、また写真が貼られたのは作品が制作された後であるということです。

作品が製作された1915年、ペヴスナーはパリを離れ、既に彫刻制作を手がけていた弟のナウム・ガボに合流し、一時期オスロに滞在しています。その後1917年にはモスクワに赴き、同地で美術アカデミーの教授を務めています。1917年と言えば、ペトログラードでのデモに端を発した暴動がモスクワにも波及した、ロシア革命の年にも当たります。この写真は、その時期の生活の一端を我々に知らせるものかも知れません。

現在、パリではアントワーヌ・ペヴスナーのカタログ・レゾネの編集作業が進められています。当館にかつて寄託されていた作品《コンポジション》も収録・掲載されるとのこと。その時、裏面に張られた写真の出典をたどれたならば、進行する革命の真只中で、画家はどのような日々を暮らし、そして彫刻へと転身して行ったのかについての手掛かりともなるでしょう。もう少し調べてみて、何か判明しましたらご紹介したいと思います。

投稿者:J.T.

コメントは受け付けていません。