名古屋市美術館の常設展「名品コレクションⅡ」で展示している作品と人々を巡るお話

現在、常設展示室2に於いて、「ディアスポラ-亡国者の群れ」と題して、戦前・戦中に日本人写真家が出会い、撮影したユダヤ人とロシア人の肖像を展覧しています。


「常設展示室2展示風景」

ユダヤの人々を撮影したのは、大阪の<丹平写真倶楽部>の六名[安井仲治(1903-1942)、手塚粲(ゆたか)(1899-1985;国民的漫画家手塚治虫のお父さんです。)、河野徹(1907-1984)、椎原治(1905-1974)、川崎亀太郎(1902-1990)、田淵銀芳(1917-1997)]のうち、当館が所蔵する三名(椎原、川崎、田淵)の作品15点を展示しています。リトアニアのカウナス領事代理であった杉原千畝(1900-1986)が発行した所謂 “命のビザ”(日本への通過ビザ)を手にしたポーランド系のユダヤ人難民は、モスクワからシベリア鉄道によってウラジオストクに到達し、その後船で敦賀に渡るというものでした。


「あるポーランド系ユダヤ人家族が所持していたリトアニアからウラジオストクまでの“脱出”経路が書き込まれた地図」

1941(昭和16)年3月、神戸のユダヤ人協会に於いてアメリカへの渡航ビザの発券を待っていた移民の群れを二度に亘って取材しています。六人の22点の連作として発表された〈流氓ユダヤ〉について、率先した安井仲治は次のような言葉を寄せています。

「流氓の眉宇に漂ふものは、我々の考へて居る哀れみのみではなく世界にばらまかれた陰影多き民族の強靭な生活力である。然し何としても悩みはかくせない。敗くるまじは戦である。世々国土の恵沢を享けて生くる吾々をして深くものを想はめる。」

写真による「報国」が叫ばれた時代と社会にあって、それに呼応するかのように見せながら、連作〈流氓ユダヤ〉には、対象に対するヒューマニズムが感じられます。

一方、それに対面するかのように展示している作品群が、「満洲国」に於いて、個人としての「表現」とともに国策としての「宣伝」に従事・活動していた<満洲写真作家協会>の写真家たちによる作品です。彼等は、内地に向けての「満洲」宣伝の取材のなかで、1938年7月、北満の一寒村に「白系ロシア人」の集落を見出しました。

「コミュニストと最後まで戦い遂に敗れ、ウスリー河を越えて」、「満洲国」領内にまで越境してきた“白系”と呼ばれた移民たちは、1940年には27戸の「白系開拓村」を形成したそうです。彼等の集落は、「ロマノフ王朝を追慕、憧憬」したことから、「ロマノフカ村」と名付けられました。その取材では、「不遇薄命のエミグラントが何等、官辺の経済的援助をうけず、自給自足の孤立経済圏的ユートピアを構成する精神力と、その農牧村経営の技術の優秀さ」が強調、宣伝されるとともに、彼等の哀惜漂う姿を借りて、「北の脅威」ソビエト体制への批判と警戒を喚起する機能と意味が加えられました。

今回の展示では、<満洲写真作家協会>のメンバーであった一色辰夫(1908-1986)と馬場八潮(やしお)(1903-1974)の連作を展示紹介しています。今回のセクションにつけた<北満のエミグラント>とは、満洲に居住していた白系ロシア人移民群のことで、1939(昭和14)年8月に、一色辰夫が出版した写真集『北満のエミグラント』に由っています。一色自身が撮影した、コロタイプ印刷による20点からなる写真集は、日本語・ロシア語版が出版されました。満鉄弘報課に勤務していた一色は、取材ばかりでなく、内地からの文化人の招来についても積極的に活動していました。写真集『北満のエミグラント』日本語版には、一色が招待し、随行した画家・藤田嗣治による一色辰夫のポートレートが掲載されています。

藤田は、1935(昭和11)年4月に満鉄主催の〈二科展〉講演会のために渡満、大連や奉天、新京を訪問しています。

という訳で、常設展示室1<エコール・ド・パリ>のコーナーには、その藤田嗣治の《自画像》(1929年)を展示しています。

写真集『北満のエミグラント』には、ロマノフカ村に取材した写真とともに、国際都市哈爾濱(ハルビン)に住む白系ロシア人の姿、さらには北満の奥地、海拉爾(ハイラル)の北、ソ連との国境近くに位置する「三河(さんか)地方」に取材した作品も掲載されています。

この地域は、1917(大正6)年のロシア革命により、政治的な闘争の舞台に巻き込まれ、それ以後、同じ民族がイデオロギーの違いにより衝突する、正に“前線”でした。赤色パルチザンによる掃討から逃れるべく、アルグン河沿岸にシベリアに移住していた比較的富農に属するカザック農民の一団は同河を渡り、この三河地方に避難してきました。その戸数は当初4、5戸でしたが、やがて交易によってこの部落の存在が明らかになると、ザバイカル出身のカザックや、海拉爾方面からの敗残カザックなどが周辺から集まり、1920年頃には20戸位に成長し、1925年頃からは農業にも従事するようになったといいます。

一色辰夫、馬場八潮とともに今回展示・紹介しているのが、松岡謙一郎(1914-1994)による作品です。1938(昭和13)年、当時東京帝国大学法学部学生であった松岡は、夏休みを利用して父が在任している「満洲国」を訪れています。謙一郎の父とは第9代満鉄総裁・松岡洋右(1880-1946)でした。「連盟よ、さらば!」で有名な、日本が国際連盟を脱退したときの外務大臣だった松岡洋右は、その後1935年に国策会社である満鉄の総裁に就任し、歴代の総裁のなかでも満鉄社員から絶大なる信頼を獲得していました。その息子が来満するということで満鉄弘報課が担当することになり、松岡謙一郎に随行し、各地を案内したのが一色辰夫でした。一色は松岡謙一郎とともに北満の奥地、海拉爾(ハイラル)の北に位置するソ連との国境近くに位置する「三河地方」へと出かけ、白系ロシア人の集落を取材しています。そしてその成果は、はやくもその年の10月(1938年10月)に、満鉄が発行していた月刊宣伝誌『満洲グラフ』51号において紹介されることになります。


『満洲グラフ』第51号表紙

一色辰夫が、東京帝大生・松岡謙一郎を導いたのは、何も仮想敵国・ソ連との国境、いわば危険と隣り合わせの“冒険”ばかりではなく、ロマンス溢れる素敵な出会いも“演出”していたようです。一色が取り持った松岡謙一郎の「お相手」とは、当時全盛の人気を誇っていた映画女優・李香蘭でした。近年、劇団四季のミュージカルにより、再びその半生が注目されている李香蘭とは、日本語と中国語を話せる「中国人」女優として、<満洲映画協会(満映)>のトップスターとして、またある意味「満洲国」の象徴ともなった日本人女性・山口淑子さん、その人でした。北満への冒険旅行の翌年、つまり1939(昭和14)年には、東宝映画『白蘭の歌』(李香蘭主演)』の宣伝のために東京虎の門にあった満鉄東京支ビル屋上の撮影会に参加していたようです。またその後、李香蘭を(わざわざ)千駄ヶ谷の松岡の家にまで連れて行き、引き合わせたのが、一色辰夫だったようです。

山口淑子・藤原作弥による『李香蘭 私の半生』(1987年、新潮社)によると、李香蘭(山口淑子)が松岡謙一郎の名前を始めて意識したのは松岡からのファンレターによるものだったようです。

その後、李香蘭と松岡謙一郎は手紙のやり取りを続け、人目を忍んで夜の青山墓地や、赤坂の料亭で逢瀬を重ねていたそうです。同書『李香蘭・私の半生』には、彼女が大切に保管していた松岡謙一郎の肖像写真が掲載されています。


「李香蘭・初恋の人 松岡謙一郎の肖像(『李香蘭 私の半生』1987年、新潮社)掲載。

同書では当時の李香蘭、つまり山口淑子の松岡謙一郎に対する甘く切ない想いが綴られています。例えば、

「私は心のどこかで求婚を望んでいたと思うが、松岡さんはついぞその気配を見せなかった。それどころか、他の女性と結婚するのではないかという兆候はずいぶんあり、表情にこそ出さなかったが、見えない相手に対する嫉妬で私はずいぶん思い悩んだものである。」(『李香蘭・私の半生』183頁)

また、

「松岡さんはお見合いも何度かしたようで、ときどき「よわったよ」と言ったりした。私は「あら、そう」などと笑っていたが、松岡さんの気持ちがつかめず、つらかった。松岡さんは笑顔が素晴らしいかただったが、彼が明るく笑う分、私は苦しんでいた。」(同上)

戦後、二人は東京で再会を果たし、松岡は山口淑子さんに結婚を申し込んだそうですが、結ばれることはありませんでした。そして、ご存知のように、女優・山口淑子は、1951(昭和26)年12月、彫刻家のイサム・ノグチ(1904-1988)と結婚しました。


「イサム・ノグチとの結婚の日」(『李香蘭 私の半生』1987年、新潮社)掲載。

という訳で、常設展示室1<現代の美術>のコーナーには、当館の所蔵作品イサム・ノグチの《死すべきもの》(1959-62年)を展示しています。

因みにこの作品が製作された時には、ノグチと山口はすでに離婚していました。

さて、そのイサム・ノグチは、と言うと、1935年にニューヨークからメキシコに移り、メキシコの歴史を表現した壁面レリーフの製作に携わりながらも、画家フリーダ・カーロ(1907-1954)と恋仲であったことはよく知られています。

という訳で、常設展示室1<メキシコ・ルネサンス>のコーナーでは、当館の、なおかつ国内唯一の所蔵であるフリーダ・カーロの油絵作品《死の仮面を被った少女》(1938年)を展示しています。

因みにこの作品が製作される前年1937年、ノグチはメキシコを離れ、ニューヨークに戻っています。

ここまで来れば、このお話の「オチ」も見えてきたのではないかと思います。イサム・ノグチと妻であるフリーダ・カーロの恋仲を知り、激怒した画家ディエゴ・リベラは・・・・。

話がどんどん脱線していきそうなので、この辺りでやめておきましょう。

という訳で、常設展示室1<メキシコ・ルネサンス>のコーナーでは、ディエゴ・リベラ(1886-1957)による壁画《プロレタリアの団結》(1933年)が展示されています。

常設展示室に展示しているこの壁画作品を背にして進み、右に曲がると、白系露人の群像が現れるという順路になっています。

1930年代、真っ向から対立するイデオロギーにより、所謂“赤と白”に二分され、あるいはナチスの弾圧により脱出と流浪を余儀なくされた民族の理想と現実、その悲哀の姿とそれに寄せられた抱きしめるような視線を紹介・展示できるのは、世界のなかでも当館だけです。エルミタージュ美術館が所蔵する名品の数々を堪能した後にでも、現在のロシアが辿った歴史の一幕(の裏側)に思いを馳せていただけたならば、学芸員としてそれに勝る喜びはありません。展示は今月末9月30日(日曜日)までです。

それにしても、感性の優れた、行動力のある人々の間には、磁石のような互いに引き寄せる不思議な力が働いていたのかもしれません。それを“縁”と呼ぶのかもしれませんが、彼らにとって世界は決して広くはなかったと思えて仕方ありません。

投稿者:J.T.

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