常設展から―郷土の美術 斎藤譲コレクションによる北川民次の版画

 ただいま常設展示室2では、郷土の画家北川民次による版画を展示・紹介しております。【図1】【図2】

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【図1

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【図2】

北川民次(1894-1989)は、生涯に340点を超える版画を制作しました。彼が初めて版画制作を手掛けたのは、1925年6月にメキシコ、トラルパムの野外美術学校に助手として赴任した時に遡ります。当時同校の校長であったフランシスコ・ディアス・デ・レオンは、民次に木口木版の技法を教え、また、彼らは技法書を紐解きながら、銅版画の制作にも当たりました。

1936(昭和11)年、タスコの野外美術学校を閉鎖、帰国した北川民次は、妻の実家があった瀬戸に滞在し、翌1937(昭和12)年には、リノリウム版11点による版画作品《瀬戸十景》を制作しています。大胆な刻線と、黒と白の対比と反転によって「焼き物」のまち・瀬戸の情景を表現した連作は、日本の近代版画のなかでも高く評価されています。【図3】

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【図3】

 戦後、北川民次は銅版画や石版画(リトグラフ)を精力的に手掛けています。その契機となったのが、美術評論家の久保貞次郎との「共同作業」でした。児童美術教育運動を推進していた久保は、画家たちに版画制作を薦め、絵本や詩画集等を出版しました。戦後の混乱と貧困を経て、人々の生活に少しの余裕が出てきたこの時期、部屋に飾る手軽な美術として、版画が流通するようになりました。1957(昭和32)年には〈東京国際版画ビエンナーレ〉が開幕し、また〈美術出版社〉が「版画友の会」を設立し頒布を始めると、画家たちの間でリトグラフの制作が盛んに行われました。

そうしたなかで、北川民次は「母子像」と「花」で愛好者を増やし、1968(昭和43)年には10点による「花と母子像」【図4】【図5】という題名の版画集を刊行しています。

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【図4】

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【図5】

 美術評論家であり、パトロンでもあった久保は1967年、毎日新聞に『国立性芸術図書館』と題した一文を寄稿しています。「政府の市民の言論表現の自由に対する抑圧的態度を揶揄(やゆ)して国立の図書館が、エロティカを蒐集し、公開すべきだ」と主張する久保に賛同した画家たちは、「国立がそれを始めるまで、お前のコレクションにと、いろいろなエロティカを寄贈してくれた」そうです。靉嘔(あいおう)の《レインボー北斎》もその一点だったということです。この時民次は、7点のエッチングを制作しています。【図6】

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 今回の展示では、斎藤譲氏からご寄贈いただいた版画作品で北川民次の制作の全貌を辿ります。

同氏は1958(昭和33)年、〈株式会社日動画廊〉に就職、画商としてそのキャリアをスタートされました。1971(昭和46)年に名古屋に赴任された後は、鬼頭鍋三郎や伊藤廉、鴨居玲といった画家たちの作品を紹介されて来られました。

北川民次については、1977(昭和52)年に『北川民次版画全集1928-1977』【図7】を編集・出版されるなど、その作品の収集と普及に尽力されました。

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【図7】

 貴重な作品を寄贈いただきました斎藤譲氏ご夫妻に厚く御礼申し上げます。12月3日(日)までの展示となります。どうぞお見逃しなく。[J.T.]

投稿者:J.T.

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