月別アーカイブ: 2012年5月

田渕展終了から2日

20日(日)で終了した「いのちの煌めき 田渕俊夫展」をご覧くださった皆さま、本当にありがとうございました。

あっという間に…

展示室は…

空っぽです。

学芸員になって8年以上経ちますが、何度経験しても、展覧会が終わって作品を撤去した後は「終わったぁ~」と安堵する気持ちと、どことなく寂しい気持ちが入り混じります。

展示作品はすべて丁寧かつ厳重に梱包され、

次の巡回先である渋谷区立松濤美術館へ向かいます。

名古屋とは一部展示内容が異なりますが、関東方面にお住まいの方、東京へ行く機会のある方は、ぜひご覧ください!

〈田渕俊夫展 今後の巡回先〉
渋谷区立松濤美術館  6月5日(火)~7月22日(日)
富山県水墨美術館   8月10日(金)~9月23日(日)
福島県立美術館    10月6日(土)~11月25日(日)

投稿者:3

今朝、こんな木漏れ日を見ました。

今朝、こんな木漏れ日を見ました。

投稿者:sy

こんな本あります!

名古屋市美術館の作品で最も人気のあるもののひとつが、メキシコの女性画家フリーダ・カーロの《死の仮面を被った少女》ですが、今日は、そのフリーダ・カーロに関する本を一冊ご紹介したいと思います。

名古屋市美術館にはメキシコ美術関係の書籍が沢山ありますが、その書籍の中に“FRIDA KAHLO IN MEXICO”というのを見つけました。英語の本なので、まだ中身をしっかり読んだわけではないのですが、装丁を見るだけでも、なんだか興味がわいてきます。

表紙は、こんな感じです。

後ろはこんな感じ。

そして、中身は・・・

こんな感じです。

スペインに征服される前のメキシコの話から、やがて、フリーダ・カーロの劇的な生涯と作品へと話題が移っていくのですが、面白いのは、

こんな風に、メキシコのお祭りなどにも飾られる「ユダ人形」の写真が載っていたり、

メキシコの人たちが親しんでいる骸骨の切り紙などもあったりして、

写真だけでも、なかなか楽しめます。

フリーダ・カーロは、プライベートな部分と作品とが密接に関わっている画家であるし、メキシコという土地とも深く結びついている人なので、この本の視点は面白いんじゃないかと思います。

著者は、画家、文筆家、美術史家など、多才な女性ROBIN RICHMOND さん。

少しずつですが、英語をがんばって読んでみたいな~と思います。

最後に、フリーダ・カーロの自画像の載っているページを・・・。

う~ん、やっぱりいいですね。

それでは、今日は、このへんで・・・。

投稿者:akko

名古屋市美術館の収蔵品にちょっとは関係あるかもしれない話

展覧会の準備や所蔵作品の調査をしていると、時々、思いもかけない事項に出会う。そのことについて調べてみようと思いながら、その後、日頃の業務に追われ、そのままになってしまうことが大半であるが・・・。

机の上に堆く積もった書類(といっても、展覧会の案内チラシや提出した原稿のゲラ等)の山がそろそろ高くなってきたので、整理することにした。

 

書きかけの調書や原稿、さらには古書カタログ等を一瞥しながら選別していると、クリアファイルから一枚の写真のコピーがでてきた。十年ほど前にアメリカの美術館の学芸員から問い合わせを受けたものだった。

写真にはヨーロッパ系の六人の男女と、彼らの両側には日本人と思しき二人の男が写っている。向かって左から三人目は、『戦艦ポチョムキン』や『メキシコ万歳』で有名なロシアの映画監督セルゲイ・エイゼンシュテイン(1898-1948)、背が高く、坊主頭で精悍な顔立ちに蝶ネクタイで決めているのは、詩人のマヤコフスキー(1893-1930)である。さらに紹介すると、マヤコフスキーの右側に立つ帽子の女性は、その伴侶リーヤ・ブリック(1891-1978)、その隣には劇作家セルゲイ・トレチャコワ(1892-1939)の妻オルガ、エイゼンシュテインをはさんで向かって左端から二人目が、小説家のパステルナーク(1890-1960)、そしてマヤコフスキーの左隣の男性は、ソ連共産党外交官のヴォズネセンスキー(1903-1950)である。

ギャラリーから購入したというその写真は、1924年にモスクワで撮影された。そしてこの写真は、彼等ロシア・アヴァンギャルドの貴重な集合写真(=記録)として評価されている。彼等の左端で腰に手を当て、どこか誇らしげに胸を張る眼鏡の日本人について、ギャラリーの調書では「Tamiji Najito」と伝えている。問い合わせがあったのは、このTamiji Najitoという人物についてであった。調べてみて、すぐに名前の表記ミスが判明した。正しくはTamiji Naito=内藤民治という。

内藤民治(1885-1965)は、1906年に渡米、プリンストン大学卒業後、ニューヨーク・ヘラルド・ビューン紙のロンドン特派員等を務めた正しく国際派であった。1917年の帰国後、雑誌『中外』を創刊し、進歩的な思想家としても活動していた。1922年には後藤新平とともにソ連極東代表ヨッフェを招き、以後“ソ連通”として日ソ間の通商問題解決に活躍している。

1962年12月に発表された彼の回想録(1)には、件の写真の、内藤とロシア・アヴァンギャルドの親交が綴られている。

「その頃知った文人芸術家として記憶に残っているのは、最近ノーベル賞問題で世界的に有名になったパステルナークや、映画“アジアの嵐”で日本にも知られているアイジンスタイン、それから絵かきで詩人のマヤコフスキーなどです。パステルナークはその頃二十七、八才の青年でしたが、わたしのホテルの隣りのアパートに住んでいて、朝目がさめると窓をあけて、互いに“ラスト・ウェチャ(お早う)”の挨拶を交わすことが長くつづきました。確か、彼を紹介したのは、ルナチャルスキーだったと思います。」

内藤の人脈は、アーティストにとどまることなく、政治家や思想・革命家にも及んだ。なかでもレフ・トロツキー(1879-1940)とは親しく交流していたらしい。同稿には彼とトロツキー、そして後に“政敵”となるスターリンの三人が仲良く並んだ記念写真が掲載されている。(2)

だが、その写真以上に、後のソヴィエトの歴史を知るわれわれにとって驚くべきことは、その回顧文に綴られた内藤の「行動」であった。

この写真が撮影された時期を境に、トロツキーは失脚し、国外追放となった。国外で行われた彼のソヴィエト批判は、やがてスターリンの「粛清」の標的ともなった。1936年にメキシコに亡命したトロツキーについて、内藤はその「日本亡命工作」を画策し、実行に移す。その工作とは、メキシコから石油を輸入するタンカーにトロツキーを匿い、その脱出・亡命を企てるというものであった。そのために彼は輸入会社を立ち上げ、海軍や関係機関に働きかけ、あとは迎えに行くだけという段階にまで持ち込みながら、1940年8月、トロツキーは、スターリンが送った(とされる)刺客により、滞在先のメキシコ・シティで暗殺されてしまう。回顧文の中で、内藤は「トロツキーの暗殺はわたしの生涯の痛恨事でした。」と告白している。

“忘れられた人物”内藤民治には、だが、もうひとつ未だ解決されない大きな魅力がある。生前、彼は自らのソヴィエト関係の文献資料を〈百年間秘密資料埋蔵の塔〉に封印・埋蔵してしまった。長野県・蓼科にある、地下六メートル、地上四メートルの鉄筋コンクリートによる塔(3)に収められた「秘匿の文献資料」が公開されるのは、二十年後の2032年だという。

(尚、「内藤民治」で検索すると、彼の評伝や「トロツキー日本亡命計画」が、彼とロシア・アヴァンギャルドの写真に関しては、撮影者である「Anatole Cemenka」で検索・閲覧できます。)
(1)「忘れられた人物 内藤民治回想録⋯日ソ関係の裏面史⋯〈上〉〈下〉」(『論争』(1962年12月、1963年1月)
(2)『トロツキー研究』第35号(2001年7月、トロツキー研究所)の表紙には三人の集合写真が掲載されている。
(3)残念ながら、筆者は現在までのところ、未訪・未見である。

投稿者:J.T.